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弁護士有村佳人  
 
 

有村総合法律事務所
弁護士 有村佳人

〒160-0004
新宿区四谷2丁目4番1 ルネ四谷ビル5階
TEL: 03-5366-3101 FAX: 03-5366-1256

 

Column Title


明けましておめでとうございます

 

明けましておめでとうございます。

昨年は、6年近くかかったライブドア株主被害裁判が、完全勝利の形で最高裁での決着を見ました。

現在、同種のオリンパス、FOI株主の裁判に取り組んでいます。

一方で年齢的なせいか家事事件を担当することも増え、損害賠償、保険関係の事件も従前どおり取り組んでおりますが、こちらも新しい判例が形成されたりとまだまだ研鑽、勉強の必要を日々感じているところです。

自分の人生を振り返ると、12年ごとに大きな変化を経てきているようです。

5回目の12年周期は、はたしてどうなることやら。楽しみにしつつ、一日一日を充実させていきたい、と考えています。

今年もどうぞよろしくお願いします。

2013年1月1日
弁護士 有村 佳人

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平成24年上半期読書録


  • 行政法概説T 第4版 宇賀克也 有斐閣
  • 著作権法   中山信弘 有斐閣
  • ポイントレクチャー保険法 共著 有斐閣
  • 海の都の物語(ヴェネツア)1 塩野七生 新潮文庫
  • 平成不況の本質 大瀧雅之 岩波書店
  • 孫正義伝 佐野眞一 小学館
    これくらい強烈でなければ成功はしないのか、という本
  • 事務管理・不当利得・不法行為 リーガルクエスト・有斐閣
    不当利得はもう一度読みたい気はする。
  • TPPは国を滅ぼす 小倉正行 宝島親書
  • 日本人が知らない世界と日本の見方 中西輝政 PHP
  • 残念な人の思考法 山崎将志 日経プレミアシリーズ
  • 海の都の物語(ヴェネツア)2 塩野七生 新潮文庫
  • 蜩の記 葉室凜 149回直木賞
  • 国家の恥 上杉隆 ビジネス社
  • 今日、ホームレスに戻ることにした 風樹茂 彩図社
    面白い人?へんな人もいるものだ
  • 検事失格 市川寛 毎日新聞社
  • そもそも株式会社とは 岩田規久男 ちくま新書 再読
  • 破綻する法科大学院と弁護士 弁護士観察日記 PARTU 河野真樹
  • 行政法概説U 第4版 宇賀克也 有斐閣
  • 債権法の新時代 内田貴 商事法務
    遅ればせながらやっと読む。
  • 蘇我氏の正体 関裕二 新潮文庫
  • 残念な人のお金の習慣 山崎将志 青春出版社
  • 野分 夏目漱石
  • 人間を磨く 桶谷秀昭 新潮新書
  • 海の都の物語(ヴェネツア)3 塩野七生 新潮文庫
  • 国家の罪と罰 佐藤優 小学館
    分析はなるほどと思うところはあるが、この人の本は、これまでに結構読んでおりちょっと食傷気味
  • 資本主義と自由 ミルトン・フリードマン
    名著ではあるのであろう。
  • 赤ずきんちゃん気をつけて 庄司薫 新潮文庫
    結構いい。
  • 憂うつな50歳 北村冨男 自費出版
    まぁ素人の作品だけあって、今ひとつ深み突っ込みにかける
  • 事例で見る】企業不正の理論と対応 八田進二 同文館出版
  • 解任 マイケル・ウッドフォード 早川書房
    事件のために読む。まぁそれなり。
  • 最悪のはじまりは 塔山郁 宝島社
    話自体は陳腐。それになりにミステリーでどきどきはさせるが・・・。今ひとつ。
  • 海の都の物語(ヴェネツア)4 塩野七生 新潮文庫
  • 絶望の国の幸福な若者たち 古市憲寿 講談社
    なんでもありで、現状追認過ぎる気はするが、現状分析としては、うなずく点もある。
  • 家族法 窪田充見 有斐閣
    とても面白い本、この人は、多分頭がとてもいい。
  • 舟を編む 三浦しおん 本屋大賞
    それなり、とても面白い、とまではいわない。
  • 日本経済の真相 高橋洋一 中経出版
    半日で読める本。マネタリスト 誰かこれに反論して欲しいと思う。お札を刷ってインフレにすればいい、と言われても、はい、そうですかといえるのだろうか。もう十分お金は市場に出回っている気もするが。
  • 類型別中小企業のための会社法 柴田和史 三省堂
    まぁ悪い本ではないが、特に良くもないか。
  • 海の都の物語(ヴェネツア)5 塩野七生 新潮文庫
  • 起終点駅 桜木紫乃 小学館
  • 海の都の物語(ヴェネツア)6 塩野七生 新潮文庫
    塩野さんの話は、やはり面白いが、・・・
  • NHK生活保護の3兆円の衝撃 宝島社
    まぁひどい話。確かに衝撃だな。
  • ハーバード白熱日本史教室 北川智子 新潮新書
    ハーバード大学で頑張っているチャーミングな若い日本人女性がいる、と言う話。
  • 震える牛 相場英雄 小学館
    まぁまぁそれなりに面白い。
  • 犯罪 翻訳部門本屋大賞 
    短編集で結構いい本だと思う。
  • Q&A 株主総会の実務 商事法務 桃尾・松尾・難波法律事務所
    法律事務所の名前を出して責任編集しているだけあってしっかりしている。最新の裁判例のフォローもできている
  • ロスジェネの逆襲 池井戸潤 ダイヤモンド社
    ライブドアの時間外取引を入れたり、オリンパスの粉飾を入れたり、経済小説分野の新鋭だろう。城山三郎等に比べてやや軽く感じてしまうのはなぜだろう。
  • 原発危機と東大話法 安富歩 明石書店
    舌鋒鋭い。自分も気を付けたい。反原発を論破するのは困難なんだろう。

 

2012年7月11日・記

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新年明けましておめでとうございます

 

昨年は、裁判員制度、法曹増員問題等司法界の変革の流れも現実化し、賛否の意見も色々出されているようです。

刑事事件については、しばらく特別案件にかかりっきりとなっていましたが、本年度からそろそろ裁判員裁判にも携わっていこうかと考えています。

増員問題も色々問題が起きているようですが、変革に伴う産みの苦しみ。数年後はきっと増員してよかったと思えるようになるものと確信しています。

当事務所も長年勤務してくれたイソ弁二人が地方で独立をし、一方で新人を採用し充実した布陣を構えることができました。

本年度も昨年と変わらぬご指導ご鞭撻をお願い致します。  

平成23年
弁護士 有村 佳人

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弁護士会について−1

 

弁護士会と言っても、一般の人にはなじみがない。まぁ医師会や町内会のような親睦団体と思われているかもしれない。それらと異なる特徴が二つある。

1つは強制加入団体と言うこと。どういうことかと言うと、弁護士になろうとするには、全国のどこかの弁護士に加入しなければならない、と言うこと。弁護士会に会員として認められれば、司法試験に通っている必要もないし、逆に司法試験に通っていても、弁護士が入れない、と言えば、弁護士になれないのである。前者の例では、例えば大学教授などがいて、実際、一定数いる。後者の例としては、少ない。司法試験に合格し、司法研修所を終了し、申請すれば通常簡単に入れてくれる。裁判官や検察官が、退職後弁護士に簡単になれるのもそれが理由である。しかし、実際、司法研修所を終了しても、どこの弁護士会も入会させない場合がある。著名な例として、元裁判官で、昔内閣総理大臣の名をかたり刑務所に電話したと言うことで裁判官を辞めた人が、その後弁護士会に入会申請しても入れてもらえていない。医師会などは、地方ごとに加入率が異なり、地方によっては30%程度とも聞く。弁護士会は100%である。

もう1つは、独立性と言うこと。これは、弁護士会はどこからも文句を言われない、と言うこと。これは実はすごいことで、弁護士資格は、司法試験と言う国家試験を経て、弁護士法と言う法律に基づいているのに、国からまったくの指導監督を受けていないのである。税理士会などは、国税局等の管轄下にある。医師の資格も国家資格なので厚生労働省の権限は及んでいると思う。しかし、弁護士にはそれが全くない。これは、弁護士資格の剥奪権限が、弁護士会にしかない、と言うことを意味している。懲戒その他の処分権限もそうだ。なぜこうなっているかと言うと、こうしないと、国と喧嘩ができないからである。典型的には刑事事件であるが、刑事被告人を処分しようとして起訴するのは、国家公務員である検察官である。裁くのも公務員の裁判官。そういう人たちと喧嘩するのに、国家公務員じゃ、やってられないし、そうでなくとも、後から国から文句を言われて何か処分されるんじゃ、本気で喧嘩ができない、そう言うことである。

これだけ書くと、へぇーそう。と言うだけの話であるが。何事も光と影があり、表と裏がある。特に独立性については、よく新聞でも見るように、弁護士が不祥事を起こす。弁護士資格には、直接には影響はないが、警察が動いたりする。例えば、弁護士が依頼者から預ったお金を横領したりして、である。普通に考えれば、弁護士会に独立性を認め、懲戒権等を与えているのだから、警察が動く前に弁護士会が動くべきであり、そのような不良弁護士は速やかに退場いただくべきである、それができないのであれば、独立性をあたえる必要はない。国民に害悪を撒き散らす弁護士を適正の処分できないのであれば、弁護士会は、身内びいきのギルドになっているんじゃないか、と言うことになる。これは極めて痛烈な批判であるが、当たっている。実は弁護士会がもっている懲戒権については、警察のような強制的な捜査権があるわけではない。家宅捜索をしたりはしないし、できない。外部からの懲戒申立がなされ、それが弁護士会の懲戒担当委員会で、当該弁護士を呼び出し調査する程度しかできない。もちろんそれにはほぼ全員が応じている。外からの批判に答えるためその委員会には、外部の人を入れている、裁判官、検察官、大学教授とかである。そこに知り合いがいるが、そこでは結構不思議な現象が起こり、弁護士委員の方が、こんな弁護士は懲戒処分すべきだ、と主張するのに、外部委員がまぁまぁ、と言うこともあるそうだ。必ずしも身内びいき、と言うばかりではないらしい。弁護士会内の常識が社会常識とは異なる面がいい面でも悪い面でもあるのだろう。このほか弁護士会についてはいくらでも書ける事があるので、今回はここまで。次回は、本年度中つまり3月末までにはこの続きを書く予定。

2006・12・29記

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近況−2006・12月

 

近況−2006・12月

更新しなくなり早1年以上経過した。その間何度か原稿は書きつつボツにしつつこんなに時間が経過した。「ホームページを開設しているんだよ。最近更新できていないんだけど」と言うと。後輩の新人の弁護士に「それ、最低ですよ」などといわれる始末。

別に更新に興味をなくしているわけではなく、忙しさにかまけていただけです。

最近はと言うと、昨年10月に細川亮弁護士が入所し、今年の10月には宮田旭弁護士が入所。新人が2年連続で入り、その間に主婦をかねている古屋有美子弁護士が入所し、現在弁護士4名体勢でやっている。人員が増えたのでそれなりに楽になってはいるとは思うけれども、そうすると今度はわけも分らない雑務も入る。雑務ではないけれども責任感から受けざるを得ない事件を受けたりもしている。そんなこんなで忙しいのである。何で私なんかにこんな事件がくるんだよ!と思いつつも、外に誰もやらないんじゃ、俺がやるしかないのか、と得にもならない仕事をやっていたりする。損得勘定だけじゃ人生つまらないし、義を見てせざるは勇なしなり、とは昔の人の言葉。しゃーない、といったこころか。「取扱分野」もとっくに改訂したいところなんだけれども全くできていない。なんだか愚痴ばかりになってしまったけれども、それが現在の偽らざる私の心境。年内のもう1つぐらいは書きたい。毎回今度から次回は何時書く、こういうことを書く、と宣言することにしよう。そうすれば宿題となり、義務感がでてがんばることとなると思うから。今度は、そう、一般の人が知らない「弁護士会」について、書いてみようともう。年内に。少ないけれども今回はこれくらいで。

(2006・12・5記)

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読書録(3)

  カラマーゾフの兄弟
数年前「罪と罰」を読み、今度はこれだと思って、満を持して読んだが、あんまり面白くない。キリスト教的文化のない人間にはわからないのか、私には、まだ早いのか。「他人を赦せ、赦せ」と切々と説くくだりがあり、ちょうどのそのあたりを読んでいたときに、事件で変な相手から電話が来て、通常の私ならすぐに切れるところ、「赦そう」と思って、穏便に話が進みうまく解決できた。読書にはこういう効用もある。読み終わるのに一月近くかかった。

ダビンチ・コード
新聞でやたら面白いと書いてあったので、読んだ。確かにやたら面白い。最初の200頁だか250頁までは、やや晦渋でつまらなかったが、その後のキリスト教についての薀蓄は、「へぇー」10回くらい。たとえば、イエスとマグダナのマリアとの間にサラという娘がいて、その後フランスで生き延びたとか。しかしイエスもマリアも王家の血を引いた人間だったとか。ニケーア公会議でキリスト教がローマ国教になったとき、イエスを「神の子」とするか「人間である預言者」とするかが、選挙で決まり、かつそれがかなりの接戦だったとか。どこまで本当か知らないが、そうだったのかと思わせる。別にキリスト教徒でない自分にとっては、どうでもいいことだけど、キリスト教の内部ではこんなことが明らかになったら、キリスト教の信仰が危なくなるということで隠しているらしい。私などは、宗教や信仰というのは、そもそもフィクションと思っているので、事実がどうであれ関係なく、信じ帰依するものではないかと思っているが、逆に事実は、そうでもないらしい。年をとると少しは信仰、宗教に関心も出てくる。

内部告発者
経済小説で、ダイヤモンド新人賞をとった作品。実は作者が知り合いの弁護士だったので買って読んだ。あっさりと読め、一日気分転換するのには手ごろ。


刑事訴訟法講義』(池田修・前田雅英)
たまに法律の本も読む。民法、商法関係が多く、憲法、刑法関係は実務につくとあまり読まない。刑事訴訟法は司法試験のとき勉強したが、当時定番の本がなく苦労した覚えがあり、現役の裁判官が書いたということで読んだ。これは定番足りうる本だろう。

日本の優秀企業
実は結構ビジネス本も読む。成功のノウハウとか好きである。目からうろこが落ちることは少ない。むしろ当たり前のことが書かれてあるだけだが、それが成功のノウハウとして書かれてあるところを見ると、逆に多くの場合そうでないことが多い、ということなのだろうか。昔、投資の本で、例の木村剛の「投資戦略の発想法」だかを読んだが、その時も同じ印象をもった。

以上、今年の夏読んで印象に残った本。

平成16年9月6日 記

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少年事件について

 

本このホームページを立ち上げたとき、このホームページは営業を目的とはしていない、と書いた。つまり広告ではない、と言うことである。しかし現実には少しだけれども、相談がメールでくる。申し訳ないが、基本的には無視する。少なくともこちらの氏素性が明らかなのに、自らの氏素性を明らかにしないのは、無視する。そうでないものについても無視することがある。そうした中で、少年事件の相談だけは、受けている。たいていは、逮捕された子供について心配した親が、どこに相談していいかもわからず、私なんぞ所にメールをしてくるんだろうと思わざるを得ず。さすがに無視できない。

別に若い頃私自身ヤンキーだったわけではなく、自らの出自がそうであったことで、特に少年事件に力を入れている弁護士もいるようだが、別に私自身そのようなつもりはない。
私が担当したことのある少年も特にヤンキーではないし、割合普通な少年ばかりである。もちろん非行事実は意外と重かったりしている。

警察署や鑑別所に少年に会いにいく。刑事事件の経験と決定的に異なるのは、やはり少年ならではなのか、物事を真摯に受け止めていることが圧倒的に多い。私の言うことをかなり真剣に受け止め考えようとしているな、と感じることが多い。結構少年事件をやっている弁護士で、シニカルに「あすこでは、みんな反省するんだよね」といったりもしている人もいる。私の経験では、たしかにそう思わざるを得ない、審判を終わって無事保護観察となり、鑑別所を出てからの対応を見て、そうおもった、裏切られた気持ちになったことは一度しかない。

今年の四月までおよそ半年の間に3件少年事件がホームページ経由できた。昨年の大晦日は練馬の少年鑑別所で少年と面談そして今年の仕事始めもやはり練馬の少年鑑別所であった。

3件ともご両親は普通の方で、少なくともこの親じゃ、こうなる、と思うような方はいなかった。両親なりに真剣に子供のことを考えているけれども、非行を犯してしまった、と言う事案ばかりであった。普通の親の子供でもやはり非行をする、と言うことである。そうした親御さんが私なんぞのところに来るのをみると、やはり弁護士へのアクセス障害は大きい。日本は弁護士が少ない、と言うが、東京に限れば諸外国と遜色がないはずである。なのにこの状況である。どんなことにもミスマッチはあるが、日本のこれだけ情報インフラが発達していてこの状況と言うのはなんとも嘆かわしい限りである。経済的にはもっと割りのいい事件が多いのも事実ではあるが、弁護士しかできない、また積極的に取り組むことが期待される重要な分野だろう。

たいていの親御さんは、少年院に送致されることを嫌がる。「年少帰り」と言うレッテルを恐れ、かつ少年院の中での人間関係を恐れる。当たり前の話ではある。建前ではなく、本音で少年院に送致したほうが良いと思うことがないことはない。非行がなされたと言うことは、やはり厳粛な事実であり、かつその状況では何らかの問題があったのは事実であり、その少年本人の成育にとって少年院の方が良い、と言う場合がないわけではない。少年院と刑務所は違う。いくら強調してもし足らないところではあるが、事実である。システムとして、少年院の保護育成プログラムもけして捨てたものではないのだけれども、世の中の偏見は大きい。高度成長も終わり、だいぶ世の中が変わってきているが、人の意識の変化は遅い。

平成16年5月10日 記

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読書録(2)

 

本屋で法律書以外の棚を見ていて、写真がとてもきれいで、図表を多く面白そうだなと思って、昨年からJ.Mロバーツの「図解世界の歴史」(創元社)を購入した。1巻は読み、2巻はあまり面白くなく、途中で挫折。そうこうしているうちにいつのまにか10巻まで出ていたのでまとめが買いし、10巻目から読んだ。これがとても面白く、10巻目の解説者の立花隆が8、9、10は面白いとのことだったので、逆順に読んだ。確かに面白く、あまり勉強していない現代史の理解が進んだ気がする。正確なことはあまりいえないが、とても印象に残ったこととして、ヨーロッパの思想・文明が全世界にいきわたったが、現実にはその思想よりもはるかに現実の生活に根付いた習慣・文化の方が、現実の人間に対する影響力が強い、と言う趣旨のことを言っていた。なるほど、そうかもしれないと思う。日本のこともちろん取り上げられていて、日本が植民地とならなかったのは、当時既に高度な文化文明があったから、と言うようなことも書いてある(もちろんそれだけが理由ではないが)。中国と比べると、支持できない。その一方で、インドが20世紀初頭アジアの中ではきわめて有利な地位(イギリスの植民地化で社会的インフラの充実、大学の設置等)あったのにもかかわらず、その後の発展は日本等に遅れをとったこと(根強いカースト制が社会の発展を妨げた、と言っている)などの理由としては、あるいは説得的かもしれない。

確かに、日常生きていて、やれ人権で国民主権だといっても、果たして日常どれだけ意識・自覚されているかと言うと、自分も含め心もとない。そんなことよりも日常生活で「常識」「道義」等のほうが重要に意識されているような気がする。法律など典型的な外来のヨーロッパ思想の権化みたいなものだが、普通に人と示談交渉する際に、私が法律・裁判をもちだすと、相手は結構「それはおかしい、常識に反している」とか「道義的責任というものがあるだろう」などと言う話が出てくる。「常識」はまだしも「道義的」などといわれると、正直、私など、なんじゃそりゃ、と言う気もするが、示談をしていると、結構言葉として出てくる。日常的に「常識」と言う言葉は出てくる。「倫理」も勉強すると出てくる。しかし「道義的」は、人の口から出てくるのは弁護士となって、示談交渉をして初めてである。これなども外来の思想・法律よりも、日常生活上、日本古来の文化・来歴の方がよほど強く根付いている例である気もする。法律を生業としている私としてはちょっと残念なところである。

そんなことを考えていたら、たまたま姜尚中の「在日」と言う本を手に取った。これも面白く一日で読んでしまった。在日として生きてきた著者の半生が書かれている。「世界で一番好きな国、日本。世界で一番嫌いな国、日本」というまったく相反した感情を持っているというのも在日の人ならではの印象深い言葉であった。著者の母親が日本に来ても、チマチョゴリを着て自分の国の古来の・祭事・行事・風習を熱心に、いくつになっても、欠かさず毎年おこなっていたなどと言う記述を読むと、やはり見についた習慣・店頭の強さを感じざるを得ない。所詮、知識・学問・思想などと言う高邁なものは学校・本で習得するもの。人間が生きるということは、それ以外のことのほうが圧倒的で(すくなとも普通の人には)そこで昔から引き継がれ、身についたものにたいする愛着、あるいはフロイトのいうところの無意識の層に沈殿しているものの方が、重要と言うか、人の生き方に直接的・決定的な影響を与えているのかもしれない。そんなこと考えてしまった。

平成16年4月9日 記

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行政事件について

 

行政事件といっても、一般の人にとって、なじみは薄い。正直弁護士になってかかわりが深いかと言うと、深くない。ただ誰でも思いつくものとして、行政処分といえば、自動車の運転免許の処分がある。免停や免許の取消しであろう。ご存知の方も多いと思うが、実際これらの処分を受ける際には、運転免許場で面接があり、当初の処分より軽くなることがある。結構多いのかもしれない。しかし、世の中にはいかにも不当と言うこともあり、面接で軽くなっても、それでもおかしいと思うこともある。実際そのような方から依頼を受け、今まで運転免許場に同行し処分が軽くなったことがある。今のところ1勝1分1敗、である。1勝は確か180日の免停が、30日となり実際は講習を受け1日で終了したもの。1分けは、処分保留となったもので、刑事処分の結果を見て決める、となったもの。1敗は処分が変わらなかったもの。これについてはさらに異議申し立てをし、将来は行政訴訟を起こすかもしれない。

最初の依頼が、1勝のものであった。最初は「こんなの無理じゃないか」と正直思わないではなかったが、現場も見て、依頼者の話を聞くと、なるほどもっとも、と思う点もあったので、どうすればいいかわからなかったが、意見書を作成し、面接に同行し、るる主張したところ上手くいった。まぁ何事もあきらめずにがんばると、上手くいくこともある、と言う教訓になった事件である。今後弁護士が増えると、こういう場面でも弁護士が活躍するのかもしれない。これまで免許場に行ったとき、弁護士が同行してきたのは、いつも私だけであったが。

平成16年2月16日 記

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新年明けましておめでとうございます

 

これまで当事務所に勤務しておりました渡邉弁護士が本年より大宮で独立・新事務所を開設する運びとなりました。かの地での活躍を期待します。当職もまた一人になりましたが、他の弁護士の協力を仰ぎつつ、心身とも鍛錬に励み(片道10kmの通勤ランを開始しました)、精進して参る所存です。

司法改革が進み、司法の役割の多様化その期待が高まる中、当職もこれを機に初心に戻り、求められるべき弁護士像を改めて問い直し、考える年にしたいと思っております。より良質な法的サービスを提供するのはもちろんのこと、「かくあるべき弁護士像」を目指し、研鑽に努め、尽力して参る所存ですが、未熟者ゆえ、まだまだ至らない点も多々ございます。本年も旧倍のご指導ご鞭撻賜りますよう宜しくお願い申し上げます。

上記内容が、今年の私の年賀状である。

内容どおり一人になってしまって、多忙を極めている。

以前は忙しい、忙しいといいつつ、いろいろ考える暇くらいはあったが、さすがに今は目の前の仕事を片付けるのに目いっぱい。一応週休一日くらいは何とか考えていたところ、今週は、土曜も日曜も予定が入ってしまった。

行政法、破産法、知的財産法と今年はいろいろ勉強をしなければならなくなりそうで、嬉しいやら、困ったやらの状況である。

次回から少しいろいろな事件の内容について、書いていこうと思っている。
                  

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敗訴判決

 

弁護士になる前、ある弁護士が「俺は負けたことがない」と言っているのを聞いて「すごいな」と思ったことがある。よく聞いてみると「俺は負けたことがない。負けそうな時は和解するんだ」と言うことで、実際「負けたことがない」と言う弁護士はいくらでもいるし、それほど「すごい」ことでもなさそうである。

かく言う私も、この間まで負けたことはない。なにをもって負けたかと言うのは、実は難しいので、民事で敗訴判決を受けたこと、と言うこととしましょう。完全敗訴判決を受けた記憶は、3、4件あるにはあるが、控訴して、結局和解してそれなりの成果は挙げていたので、負けには含まない。それで、私もこの間までは「負けたことはない」と言っていた。

ところが、ついにこの間、完全な敗訴判決を貰った。依頼者が原告側で、被告に請求していたところ第1審で請求棄却、第2審で、控訴棄却、つまり一円も相手に支払わせることができなかった、と言うこと。

裁判所の原告勝訴率は実は高い。確か統計上七割前後だったと思う。弁護士がついてそれなりに選別していることもあるだろうし、本人が訴えるにせよ、それ相応の自信があるからこそ訴えたから、とも言えそうである。

そうした中での敗訴判決。依頼者の方には本当に申し訳ない。弁護士としては、ある面依頼者とはある程度距離をもった方がよいのだが、徹底抗戦すると、どうしても利害が一致すると言うか、ほとんど同じ気持ちになる。判決を貰った時には、本当に裁判官に向かって「バカヤロー」と言いたくもなる(もちろん言えないが)。自らの無能さと不甲斐なさを正面から突きつけられる。自信もなくなるし、依頼者にあわせる顔がない。依頼を受ける時にも慎重になってしまう。

依頼された時断るべきだったのではないか。説明義務は尽くしたか。もっとやるべきことがあったのではないか。どうすればよかったのか。何が足らなかったのか。判決を貰っておよそ一月。忘れたいけど一生忘れられないのだろう。また忘れてはいけないのだろう。今年の夏休みは、このことばかり考えてしまった。

平成15年8月18日 記

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読書(1)

 

今回は趣向を変えて、読書について。仕事柄本はよく読む。経費になるからわりあい片っ端から本は買う。もちろん法律書が圧倒的の多い。そのうち必要になると思って買うと、全く読まずに2,3年経過してしまうという無駄遣いもあり最近少し反省しているところである。

法律書ばかり読むと、なんか頭の中が変になるというか、もっと正直に言うと吐き気がしてくることもあるので、文芸書を買う。裁判所の待合室でも結構文庫本を読んでいる弁護士もいる。同じような感覚なんだろうと思う。

むかしおそらく私の一番の応援団であった父親を病気でなくし(私が小学6年の時である)、中学生の頃やたらとひねくれ、すねた時期があり、本の世界に埋没していた時期がある。3年ほど家にある本をそれこそ片っ端から読んだ。日本文学全集や確か中央公論の「世界の名著」とか置いてあり、暇つぶしに読んだものである。なぜか吉川英次全集がハードカバーで全巻そろっており、その中の「三国志」や「新平家物語」の方が面白かったことが頭の中に残っている。当時NHKでもやって、確か田村正和が主演した「鳴門秘状」(字は違うかもしれない)も面白かった。

法曹の友達からもこれが面白い、と言われ読んだりもするが、結構衝動買いもする。確か1昨年ほんの気まぐれで買った岩波文庫のドストエフスキーの「罪と罰」は、本当に面白かった。高校生のときつまらなくて途中で挫折した覚えがあるが、30代で読むとこんなに面白かったのか、と思うくらい夢中で2,3日没頭してしまった。同じ岩波文庫の「三国志演義」を買ったが、これは吉川本の方が、100倍は面白い気がする。

週刊誌や新聞の書評を読んで買うこともある。何時だかこのミステリーが面白い、と言うなんかのコーナーで読んだロバート・ゴダード(イギリスの作家)という人のミステリーを5,6作品読んだ。解説に書いてあったが、この人は「面白い本がないから、自分で書いた」そうだけでも、それほどでもない。けど何冊かその後も買ったので暇つぶしには、手ごろな本かもしれない。確か「惜別の譜」と言うのが一番面白かったと思う。

その他ご存知塩野七生「ローマ人の物語」は、毎年楽しみにしている。シーザーの巻は、何度か読み返した。

直近で読んだ本では、「痛快のンキャリア検事の反骨人生」松林健、講談社出版サービスセンターが面白く、一気に読んだ。自分史である。人様の人生をあれこれ言うつもりはないが、やはりある意味真剣に生きた人の人生からは色々感じることはあるし、啓蒙される面は多々ある。内容も面白いので、一読を薦めたい。印象に残っていることをひとつ。邪気のない自慢話は、適度な自己顕示である、ということ。どうも日本人は謙譲の美徳と言うか、自慢話をするのは気が引ける。逆に言うと、他人の自慢には嫌悪すると言うことでもある。一応私なりに気をつけているつもりではあるが、適度な自己顕示はむしろ好ましいのではないか、と言う趣旨で書かれてあった。今後は少しそうした目で見ようかな、と感じた。自分も他人を不快にさせない程度の自己顕示性を身につけ、他人の自己顕示にも素直に賞賛してあげよう、と思った今日この頃。

平成15年5月12日 記

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1年経過

 

ホームページを立ち上げて1年経過しました。

良かったこと。

地図がついているため、クライアントに対して、場所を説明する際に、ホームページを見て、で済むようになったこと。連絡を取っていなかった田舎の同級生や昔の教え子(私は、司法試験の受験時代に塾の先生をしていました。)がホームページを見て連絡をくれたこと。数人であるが、見ず知らずの方からメールをもらったこと。

良くなかったこと。

あまり思いつきませんが、いつものように事故の相手方と交渉する際に、「先生のホームページも見ました」と言われるとどきりとする。かっこつけてホームページに書いてあることと違うじゃないか、と言われたらどうしよう、と思ったりする。一応まだ言われたことはない。

反省していることとして、全く進歩がなかったこと。ほかの弁護士のホームページと見比べて、あまり特長もないし、斬新さもない。来年はもっと工夫しよう。

1年を振り返って、やはり今年も仕事に忙殺された。あっという間に一年たった。特にいいこともなかったが悪いこともなかった。平穏無事な1年。こういう風にしていつの間にか年をとっていくのだろう、と思う今日この頃。

今日が仕事納め。今年この私のつたないホームページを見てくれた人方々に対して、どうもありがとうございました。皆さんにとって来年が良い一年であることを祈念します。そして来年もよろしくお願いします。

平成14年12月27日 記

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民事訴訟(2)

 

最近簡易裁判所でなぜか、判決をもらう。つい数日前ももらった。交通事故で100%勝利を納めた。自慢話になってしまうが、ここ最近は判決もらうたびに、有利な判決である。交通事故などというのは、やはり双方に過失があることが多く、一部のみ勝つという判決もある。最近は当初の見込みより上手く言った判決を貰ってばかりである。

正直に言ってなぜそういう結果になるのかと言うと、単純な話で、私の方が一生懸命やっているからに過ぎない。私のもとボスであった弁護士も言っていたが「一生懸命やる奴にはかなわないよ」全く正論。やはり弁護士にもいろいろいて、手を抜くやからもいる。事故現場くらい行って来い!と言いたくなる弁護士もいる。こういう弁護士が相手だと私にとってはとてもいいことではあるのですが。私だって手を抜いてしまうそうになることもある。しかし、なぜかそういう時は、依頼者からの強力なプレッシャーがかかり、手を抜きたくとも抜けなくなっている、と言うだけの話。だから依頼者と言うのは、本当は、うるさいくらいがちょうどいい。ま、中には自分の事件を最優先にしろ、などという、うるさいを通り越して単なるわがままに方もたまにはいらっしゃる。

 「簡易裁判所でなぜか、判決をもらう」とあえて書いたが、これは簡易裁判所は判決を書きたがらない、と言う現実があるから。少なくとも私がそう考えているから。別に簡易裁判所に限らないのですが、あるいは交通事故のせいかもしれませんが。そう感じることも多い。

現在進行形のある事件―金を払えと請求されている事件
私の依頼者ともう一人が訴えられた。相手の請求はもう一人には勝てそうだが、こちらには勝てそうにない。というか、珍しく私も依頼者に「こんなもの負けっこない」なんてことを受任時に言ってしまった。ところがどっこい、原告は徹底的にやってくる。そりゃもう立派。手間隙相当かけて、証拠調べ、証人尋問もやり、やっと終わりかけ、現在最終段階。当然和解というか話し合いの席となる。とにもかくにも私のほうは、なんとか勝てそう。すると裁判所いわく「証拠上強気になるのはわかりますが、控訴された場合の弁護士費用分くらいは払って、リスクヘッジしたら」などと。裁判所の言っていることは、要するに「判決になったら勝つけども、控訴されたらまた費用がかかるから、相手に払ってやって終わりにすれば」ということ。

覚めた、合理的判断から言えば、裁判所の言っていることは、真実。依頼者の中には、相手に払うくらいなら先生に払いたい、といってくださる方もいらっしゃる。裁判を抱えている、と言うこと自体、普通の方にはストレスになるのも事実。どうすべきなのか。もちろん正解はないのだろう。結局は本人の価値観、決断ということとなる。こうして裁判は、和解で終わる。

平成14年11月26日記

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民事訴訟(1)

 

民事の裁判と言っても実は色々あり、一般の人がおそらく思い浮かべるところの民事裁判とは、訴訟のことを言います。

当事者が法廷で、けんけんがくがく主張しあい、証人尋問などをし、判決を頂く、と言うイメージ。

現実に訴訟でこうなるかと言うと実はそうなっていない。それがいいことか悪いことかは別として、上に書いたようなことが現実におこなわれ、それが一般的であれば、おそらく日本の裁判所はパンクしてしまうでしょう。

現実には「和解」となり、内容を調書に書いておしまいです。

物事にはよい面、悪い面が必ずあり、この「和解」も同じ。和解であれば、早期解決、任意に履行が期待できる半面、玉虫色の解決になるのかもしれません。判決をもらうと、それだけ手間・時間がかかります。悪口を言う人は裁判所は、和解ばかり勧め、判決を書きたがらない、と批判する人もいます。

正直弁護士をしていて、和解で終了するのは楽であることが多いのは事実です。判決の怖いのは、当たり前ですが、勝てばいいけど、負けるリスクは必ずあると言うことです。完敗、大敗したらどうしようと言うストレスは必ずあります。

負けるとわかっている事件は受けませんが、勝とわかっている事件も多くはありません。金銭の支払いを求める裁判などは、勝と解っていても、ではいくら、と言えばなかなか難しかったりするのです。依頼者はすぐ明確な回答、予測を求めますが、それがわかれば苦労はしない、というのが弁護士の本音でしょう。

先日も法律相談で、確か隣人のおかしな行為か何かに対して、慰謝料を請求したい、と言うような話がありました。あまりよくは覚えていませんが、確かに文句を言って当然の行為が隣人にはあったのですが、ではその慰謝料がいくらとなると明確にはいえない、と回答したところ、法律相談センターにクレームが来たことがあります。事情を説明してわかってはもらいましたが、やはりこれなどは、弁護士に期待しすぎと言うか、裁判をやって見なければ解らない、と言うことはあるのです。やはり本人が背負わなければならないリスクがある、とい言うのを理解してほしいものです。説明すればわかってくれる人は多いのですが。

しかし、最近自分としては、判決をもらうことがなぜか多い。依頼者の強い要望であったり、相手方が和解をのまなかったりが理由ですが、これから司法改革が進み、弁護士、裁判官の数が増えると判決で終わる事件が増えるのかもしれません。そしてその時が、司法改革が幻想に終わる時かもしれませんが。

平成14年9月3日記

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私の日常

 

私の常日頃の生活を少し。

弁護士がどう言う日常を送っているのか、知らない人も多いので少し説明を今回はしましょう。自分が平均的弁護士かどうかはともかく少なくとも私は、こうだ、といものでしかありませんが。

たいてい裁判所の朝一番の法廷が10時からなので、まずはそれに行く。家から直行である。裁判所が東京であったり、横浜であったり、浦和であったり千葉であったりするが、朝一に法廷を入れるのが味噌。その前に事務所に行くことはない。

その後次の裁判所に行くこともあるが、たいていは事務所に戻る。事務所に戻ると朝一の裁判の経過報告書を作ったり、次の期日の書面を作成する。そして次の裁判があるとそれに出かける。

事務所にいるとたいてい電話がかかってきて、電話応対に忙殺される。下手すると一件で、1時間半とか2時間かかったりもする。日中は打合わせの時間も設定しているので、書面を書くのは5時以降だったりする。5時や5時半頃に打合わせを設定すると、その方々と飲みに行ったりする。忙しい時は、ほどほどにしてまた事務所に戻り書面を作成したり、電話したり。そうこうしているうちに、10時とか11時になるので帰るのである。昨年はそれが終電であったりした。当然6時以降の打合わせ何っていくらでもあるし、土日に打合わせがあることなどいくらでもある。一度など相手方の交渉で、朝の1時30に呼び出されたこともある。我ながらよく行った、と思うが、こんなことは二度とないでしょう。今度からはきっぱり断ろう。以前は泊り込みになることさえあったが、仕事効率がきわめて悪くなるということがわかったので、最近は終電には帰る。以前は10時位になるといやになって、一人で飲みに行ったり、家で一人で飲んだりしていた。まぁそれは今も変わらない。以前は毎日のように飲んでいたが、最近は週3,4回になった。もう若くはありません。週休2日なんて夢のまた夢。何とか1日休むだけ、ひどい時は月1日しか休めないこともあった。優雅にゴルフも出来なかった。比較的若い弁護士はみなそうなのだと思う。何とか時間を見つけて、空いている時間にジョギングとしたりと健康管理だけは気をつけている。

先輩の弁護士に「弁護士の仕事は3wである」と言われたことがある。何のことかと言うと、writing、waiting、walkingのことだそうだ。確かにそうだと思うこともある。

弁護士をやっていて、いいな、と思うことの一つとして、電車での移動時間が長いため、結構読書の時間をとれること。まぁ他の仕事をあまりやったことはないからわからないが、移動時間が長く、それほど忙しくなければ、週に2冊くらいは本を読める。忙しいと電車の中でもパソコンをやらざるをえないのだけれども。

八王子、横浜、千葉、浦和の裁判所への移動時間は貴重な私の読書の時間である。

人から伝え聞々で「弁護士になって最初の5年間は死ぬほど働け」と言うのだそうである。そうすればお客さんもつくし、仕事のリズムができる、という意味だそうだ。私は「死ぬほど」は働きはしなかったが、一所懸命には働いたと思う。特に昨年から今年の前半は、われながらよく働いたなぁ、と思う。

年がら年中忙しいのではなく、実は時期的な問題は確かにある。一つは裁判所の予定である。年末年始、夏休み、ゴールデンウィークは、裁判期日が入らないからやはりこの時期は、たまった仕事をこなす。忘れてはならないのは、3月末から4月末の裁判官の移動時期。この時期も裁判期日が入らないので、遅れていた仕事を取り戻す絶好の時期である。今年は、春のこの二つのバックアップ期間を利用しても、どうしようもなく仕事がたまりすぎて途方にくれていたが、やはり神様はいるようで、上手い具合に新人の弁護士が入ってくれた。受けている事件自体は、もうすぐ200件となる。一見とんでもない数字だけでも、そうでもない。半分近くは、動きのないもの、次回期日が決まっていてそれまでの段取りができているもの、相手方の出方待ちのもの等々があるので、何とかなっている。今日中に何かしなければならない、というのは実はせいぜい10件から20件なのです。だから何とか回っているのですが。おかげでホームページの更新もできる。少し寂しいのは、地方の裁判所に新人の弁護士が言ってくれるため、少し本が読めないこと。

おそらく、たいていの弁護士は似たようなものだと思う。弁護士だからといって、それほど特殊ではないのです。私のもう6年目なので多少はゆっくりしたいのですが、多分私みたいな小さい事務所の経営者と言うのは、いわゆる中小企業のオーナーと同じような感覚なのだと思う。

平成14年7月21日記

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弁護士という仕事 (5) 民事事件(1)

 

私のやっている民事事件について今回は少し。

相変わらず、私のやっている民事事件としては、交通事故が多い。半分以上を占めている。そしてその半分は示談交渉である。損害保険会社からの依頼でやっているのが大半で、被害者側の相談、交渉、訴訟もやっている。

システムとして、保険会社にも損害調査部があり、そこでも保険会社独自に示談交渉をしており、あえて外部の弁護士に依頼を出すのは、それだけ問題のある案件なのだろう。保険会社の担当者に聞くとやはり全体の1%くらいのようである。

弁護士の私が言うのも変だが、自分に回ってきた事件を全て裁判にするわけではない。裁判にすることに不合理性はいかんともしようがない。何が不合理かと言うと、時間がかかると言うことと、相手方も弁護士をつけるとなると、相手方自身の取り分がすくなることである。後者の理由は、弁護士の弁護士全体の職業、経済利益には反するが、事実である。一応私自身としては、被害者の方の正当な権利は尊重しているつもりで、わざわざ金銭的取り分が少なくなることがわかっているのにもかかわらず、こちらから裁判をやるのは、やはり躊躇する。もちろん中には話し合いが難しく、裁判の中で適正に処理するのが望ましい事案もある。

おそらく、好みではあろうが、全く初対面の人と交渉をするというのは、私は苦にならない、というか結構好きである。交渉の丁丁発止を面白く感じている。こればかりはまさに百人十色で、いろいろな人がいるなぁと、本当に思わせてくれる。明らかに自分に非があるのにもかかわらず、平気な顔をして被害者として振舞う人すら世の中に入る。明らかなゴネ得を狙っているとしか思えない人等々。注意しなければならないと思うのは、やはり保険会社から弁護士に依頼が来るのはあくまでも特殊案件であると言うこと。日本人がみんなこんなだ、とはとても思いたくない。

保険会社担当者とも話をすることがあるが、素朴に考えて、被害者に酷だ、と感じることもない訳ではない。しかしこれだけは言っておかなければならないが、別にそれは、弁護士や保険会社が悪いのではない。裁判の結果そうなるものなのである。

被害者の人で素朴な感覚で、自分の主張だけを言う人も少なくないが、それが結構通らないのが現実なのです。

この辺のことをもっとわかりやすく説明したいのですが、それはまたいつか別の機会に。

平成14年7月12日 記

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弁護士という仕事 (4) 刑事事件(3)
 

当番弁護士制度がある。逮捕された場合、即座に弁護士と面談し適切なアドバイスを受けられると言うものである。理念は正当である。刑事事件というものがどう言うものかを知らない被疑者に適切なアドバイスを与え、変なことにならないようにするものであり、誠に結構。最近のマスコミによるとこの当番弁護士の費用が問題となっている。弁護士の面談費用が1回1万円程度支出されており、このお金の出所が財政赤字になっているのである。

制度と言うのは一度出来てしまうと、一人歩きし、濫用されるのは世の常である。

最近当番で行き、有罪判決を受けることが明らかな人間が、弁護士に聞くことは、決まっている。

「私の刑は、どれくらいになりますか」

刑事事件というのは、個性が極めて強い。確かに覚せい剤の自己使用や所持と言った定型的なものもある。しかしそれ以外の事件は個性が強く刑の予測はおよそ困難である。その旨説明すると。

「相場ってものがあるだろう」
「それじゃ弁護士を呼んだ意味がない。何のために呼んだんだと思っているのだ」

等と言う。弁護士は競馬の予想屋じゃありません。自分で金を払うわけでもないのに、なにを偉そうに、と言うのが現実。

道路交通法違反つまり交通事故の場合は、比較的普通の人と言うか、話すことが理解可能、共感可能な人が多い。

それ以外の犯罪の被告人の場合、とても驚くことが多い。もちろん留置場という特殊なところに閉じ込められた状況であることも差引いて考えなければならないでしょうが、なんと利己的というか、自分のことばかりで相手や他人のことを考えない発言が多い。そういう人が犯罪者になるのか、あるいは特殊な状況で、赤裸々な本音というか、いざとなったら恥じも外聞もない状況になってしまうのか、よくわからない。

他の犯罪は、確かに出来心にしても何で?あるいは、なぜこれほどにエゴイステックなれるのか?なにゆえ他人の心を考えられないのか?なぜに自分の行為を正当化できるのか?理解できないことが多い。

所詮人間なんて「色と金」なのか、自分さえよければよいのか、本当はみんなそうだけども、色々な規制でそれを押さえているだけなのか。それが自分自身に対するプライドであればよいが、自分の周りや家族へ迷惑、心配をかけないようにとする配慮なのか。

昔テレビの討論番組か何かで「人間の尊厳云々言うが、人間なんてそんなに尊いものなのか」などと言うのを聞いた覚えがあるが、それが現実だったりもする。

あんまり厭世的になっても仕方ないのだけれども、そう言う気持ちになることはままある。

付き合ってがっかりさせられる人も確かに少なくないが、逆にみならいたい人も多いわけで、なるべくそう言う人と接しようとするくらいしか対処方法は今のところないのだけでも、ほかの人はどうしてその辺のところ内面的に処理しているというか合理化しているのだろうか。

平成14年6月28日 記

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近況報告 平成14年5月
 

早いもので、ホームページの更新を止めてから3ヶ月も経過してしまいました。何か継続的に書こうとしていたのですが、仕事に忙殺されて書けなかったのですが、本当にあっという間に3ヶ月近く経過してしまいました。

この間、珍しく刑事事件が同時進行で4件継続していました。うち1件はもうすぐ判決です。

自分でやっている集団訴訟もいよいよ佳境にさしかかったり、と相変わらず忙しいのですが、私の事務所に一人勤務弁護士が5月から入り、多少なりとも精神的余裕が出てきたところです。その一方でもうすぐ株主総会も控えていますし、やはり気の抜けない日々が待っています。

以前勤務していた事務所のボス弁から以前、弁護士になると2,3年なんてあっという間だよ、なんて言われたことがありますが、本当にそう感じます。私も小さいながらも自分で事務所を構えてはや3年経とうとしています。よかれ悪しかれ、弁護士は最初に入った事務所の弁護士の影響を受けざるを得ませんが、3年も一人でやると仕事のやり方、交渉の仕方、やっている仕事自体等々、やっと自分なりの個性も打ち出せるようにもなり、ある種分野の仕事にはそれなりの自信も持てるようになってきました。

だれもが心がけ、だれもが大切とはわかっていることの一つとして、「迅速な事件処理」少し心もとなくなっている気もしますので、後輩の勤務弁護士も入ってきたことだし、ここいらで心機一転というか、初心に返りまた頑張っていきたいと思う今日この頃です。

平成14年5月11日 記

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弁護士という仕事 (3) 刑事事件(2)
 

刑事事件を受任する機会は少ない。主に国選事件と当番弁護士からの受任が多い。

少し手続について説明すると、刑事事件というのは、通常警察等の捜査が終わり、検察が起訴をし、裁判を受け刑が決まります。この検察の起訴というのが大きな分かれ目で、起訴後事件は裁判所に係属することなり、その時点で選ばれるのが国選弁護人であり、起訴前の捜査段階で、警察に逮捕されている状態で、逮捕された本人から弁護士会へ連絡があり派遣されるのが当番弁護士制度です。当番弁護士で派遣されそのまま国選弁護人となることもあります。

さて、弁護士の活動としてはこの起訴の前後で大きく変わります。起訴されるかどうかは、被疑者にとって現実には大きな問題です。起訴されれば起訴休職として会社を事実上解雇されることもあるし、場合によって、それまでは会社等に知られていなかった刑事事件がばれてやはり解雇になることもあるからです。この起訴されるかどうかによって、日本の司法はいびつになっているとも言われています。つまり、素直に罪を認めれば起訴されないかもしれない等の事情から小さな罪については認める被疑者が少なくないとも言われています。起訴されて裁判を受けるくらいなら罪を認めて罰金を払った方が軽く早くすむ、ということから、本当はやっていないけれども、罪を認めてしまうのです。日本は、ちいさな冤罪が多い、と言う人もいます。

最近はマスコミで盛んに流されている電車内での痴漢などそうだといいます。聞いた話ですが、弁護士が痴漢の被害者と示談金の話をしていたら被害者が「この間もその金額でしたから」とのたまわった、と言うこともあるそうです。痴漢で現行犯逮捕されると、本当はやっていなくとも、痴漢の容疑者となり何週間も身柄を拘束されれば会社での立場がなくなり退職せざるをえず、痴漢を認めて早く身柄を釈放されれば退職しなくてすむ、というものです。

起訴前の捜査の間、犯罪容疑者が必ず逮捕されると言うものではありません。逮捕というのも、現行犯の場合は別ですが、通常の逮捕の場合、裁判所が必ずチェックする仕組みになっています。逮捕は2ないし3日しか拘束することが出来ません。その後も身柄の拘束をする場合、勾留という別の手続き裁判を受けなければなりません。この場合さらに拘束が10日認められます。

問題は、この勾留が簡単になされることもある点です。身柄を拘束するにはそれなりの理由があるのですが、被疑者・容疑者はそれについてなかなか上手く反論が出来ません。私も以前知人から依頼があり、この勾留の裁判の取消し請求(法律上準抗告というます)をしたことがあり、認められ、即座に釈放してもらったことがあります。ちなみにそれは、夕方4時に申立をし、釈放されたのが午後11時でした。裁判所も遅くまで仕事をしているな、と思う反面、そもそもなんでもかんでも勾留を認めなくてもよいのに、と思ったりします。

勾留というのも、検察官の請求に対して、裁判所が勾留を認める決定するものですから、勾留するかしないか、と言うのは、検察官側での一方的主張で決められてしまいます。こう言うところでも弁護士の働く場はあります。

しかし、これが先ほどの痴漢などの事件で、本人がやっていないと否認などしているとまず認めません。

起訴された後に身柄の拘束を解くのを「保釈」と言います。保釈も本人が否認していると、まず認めません。

つまり、自分はやっていないと言って、裁判で争うと延々と身柄拘束が続くようになっているのです(2,3ヶ月は簡単に身柄拘束が続きます)。これをもって「人質(刑事)司法」と言う人もいます。身柄をとって、それを人質に裁判をし認めさせるから、日本は有罪率が以上に高いのである、と言うものです。いわゆる在宅(身柄を拘束されないで起訴されるもの)の場合は、このようなことはありませんが、なんともひどい運用・実態です。

もちろん、確かに証拠隠滅や逃亡のおそれがある場合について、保釈しないのは理由があるのですが、ひどい場合は、本人が犯行を全て認めていても保釈してくれない場合があります。裁判官が、裁判の途中に被告人が被害者と交渉して証拠隠滅を図る可能性がある、とでも考えているのではないか、と思わざるをえないほどです。刑事訴訟法には一応「権利保釈」って書いてあるのですが。

被疑者が身柄を拘束されていると、裁判の打ち合わせのための準備が相当大変になります。拘置所などは、面会時間が限られているし、行くまでに時間もかかる。むやみな身柄拘束は弁護権侵害じゃないか、と感じるほどです。このような裁判の運用に批判的な弁護士は多いと思いますが、あまり改善の兆しはありません。自分を含めてこれからの弁護士としての活動で改善させていくしかないのでしょう。

弁護士の分野だけではありませんが、世の中改善すべき所は、まだまだいくらでもある。

平成14年2月23日 記

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弁護士という仕事 (2) 刑事事件(1)
 

弁護士という仕事の中で弁護士しか出来ないもの、最近の司法改革の中で隣接分野への弁護士業務独占の一部解放も話題になっていますが、その中でも刑事事件の弁護活動を弁護士以外への解放は議論されていないようですし、やはり弁護士の仕事の中で最も典型的で一般の方にイメージを持ちやすいのか刑事事件における弁護活動でしょう。しかし現実に刑事事件を専門としている弁護士は、ほとんどいません。一人もいないわけではありませんが。

なぜ少ないのでしょうか。

まず、考えられる理由としては、ペイしないからでしょう。

昔の刑法学者で最良の刑事政策は、社会政策である、と言うようなことを言った外国の学者がいます。刑事犯罪を無くすには、政策政策を充実させるべきである、ということで、貧困が犯罪の原因である、と言う意味です。

ある程度あたっており、私のささやかな経験でも、刑事事件の被疑者で自分で弁護士費用を支払える人はやはり少ない。先日知り合いの弁護士と立ち話をしていたら、現在の刑事事件の7割は国選だそうです(国選とは、弁護士費用を国が負担するもの)。

国選の弁護士費用は、第1審裁判で10万円以下のことが多く、弁護士も霞を食べているわけではありませんから、これではなかなか事務所を構えて仕事をするのは困難です。否認事件(被告人が、起訴された犯罪事実を、自分はやっていない等争っている事件)で色々仕事をし、時間を相当費やしても、高額の国選弁護料が必ずしも支払われるものではありません(オウムの事件では相当支払われていますが)。そのため国選事件を全くやらない弁護士もいます。

しかし、刑事事件は弁護士以外まさに出来ない仕事なのですから、最低でも年一回くらいは、全弁護士に国選事件の受任を義務づけるべきだと私は思います。やはり弁護士になる際、弁護修習と言う制度があり税金が投入されていること、弁護士法でも弁護士の公益的存在は明らかなので、私などは当然のことと思うのです。しかし残念なことに、日本の弁護士会は、そんなことを決め強制する力がありません。

刑事事件を主にする弁護士がいない理由として、経済的に弁護士に負担があるだけでなく、もう一つは面白みにかける点かもしれません。ドラマのような無罪を争う事件は圧倒的に少なく、情状等(犯罪を犯したこと自体は認めつつ、それ以外の点で被告人のために弁護すること)の主張だけの場合も多いのです。現実に日本の刑事裁判の有罪率が99%を超えていることは多くの人が知っていると思います。ただこの情状弁護と言うのもやはり重要なのです。

よく一般の人に何故犯罪者の弁護をするのだ?と聞かれることがあります。はっきり言って、これなどは誤解以外のなにものでもなく、私は、どんな凶悪犯であれ、弁護する必要がない事件などというものはない、と考えています。確かに被告人と話をしていて、弁護困難と思う被告人がいないわけではありません。現実に強盗殺人、強姦殺人等の凶悪犯の弁護をしたことはありません。ですからこのような断定的な物言いをするのは、控えるべきかもしれません。

凶悪犯でも弁護する必要があるのは、単純な理由からです。刑事罰を加えるには適正な手続が必要である。ただこれだけです。「あいつが犯人であることは明らかだから、即刻死刑にせよ、そうしないと被害者が浮かばれない」等わかりやすい話です。確かに衆人環視のもとでの犯罪もあり、そのものが犯人であることが明らかであるのにもかかわらず、何で費用をかけて裁判を経る必要があるのか。情状弁護により被告人は恵まれない環境でした、不幸でした、だから刑の減刑を、と言う主張に対しては、例えばそれが殺人事件であれば、だからと言ってその被害者が死ななければならないのか、弁護不要即刻死刑。わかりやすい話です。

しかしだからと言って、弁護活動が不要とはならないのです。このあたりのことを理解してもらうのは、なかなか大変ですが、少なくとも弁護士の多くは私と同意見のはずです。
次回からは、私の携わった刑事事件につき差し障りのない範囲で話をします。

平成14年2月8日 記

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弁護士という人 (1)
 

仕事について書くつもりでしたが、その前に少し強烈な印象を残すことがあったので、今回は「弁護士という人」と言うことで書きます。

一般論として言えば、職業でその人間が決まるわけではなく、通常の社会と同様いろいろな人がいる。当たり前のことです。ただ、仕事上多くの場合、他人から信頼され、人に言えない秘密を打ち明けられる立場ですので、その信頼に応えられる人間になりたい、と私自身は思っていますし(十分それが出来ているかはもちろん別ですが)、そう考えている先輩諸氏も多い気がしています。あまりこんな弁護士になりたくないな、と思う弁護士は、少なくとも私の知っている限りあまり多くない気がします。

ただ、つい先日このようなことがありました。事件の相手方と面談することとなり、相手の自宅まで赴き話をしていた所、相手が「私の相談している弁護士がいるので」ということで、突然ある弁護士に電話をしました。そのときは不在だったようですが、面談をしている最中にその弁護士から相手方宅に電話があり、私に代わりいきなり「先生のやっていることは、弁護士倫理49条に違反しているから綱紀委員会に申し立てる」と言うのです。弁護士倫理49条というのは、「相手に弁護士がついている場合、弁護士の了承なしに、相手と直接交渉してはならない」と言うもので、当然私も知っています。綱紀委員会というのは、弁護士会で弁護士の行為を取り締まるものです。私が、今の今まで委任を受けていることを知らないと説明しても、知った瞬間に私に電話すべきだといいます。さらに「私は弁護士27年やっていて、先生はお若いから」と言うのを連発し、事件の具体的内容には触れない、というもの。

後で知ったのですが、いろいろ一般向けの本も書いている弁護士でした。通常弁護士と交渉し居丈高になることはあまりありませんし、そうされたこともないのですが、かなりビックリし、いろいろな弁護士がいるな、と改めて思い知らされました。よく言われることですが、普通の人は年をとるにつれ社会経験を積み角が取れるが、役人だけは、年をとるにつれ偉そうになる。弁護士も「先生、先生」と言われ勘違いする輩も少なくないのかもしれません。自分の経験年数だけを声高に言い、相手に笑われていることにすら気が付かない。ネットサァーフィンをしていてあるサイトを見たのですが、ある弁護士は、依頼者が自分を先生と呼ばないのを非常識である、と主張しているそうです。

悲しいこと、残念なことですが、こんな弁護士が存在しているのもまた事実のようです。
いわゆる司法改革が現在進行中で、弁護士の数が飛躍的に増えます。増やす際の議論のひとつとして、弁護士を増やせば、違法行為をするような弁護士が増えるのではないか、だからあまり増やすべきではない、と言う意見もありました。

あまりにも当たり前ですが、試験が難しければ、違法な行為をする人間が少ない、などと言うのはばかげた話でしょう。その試験が難しかった頃の弁護士で懲戒を受けている弁護はたくさんいます。弁護士というだけで偉いと勘違いし、変なことをしたのでしょうか?
なお念のため付け加えますが、年配の弁護士に変なのが多いと言う意味ではありません。立派で尊敬に値し、見習いたい方もたくさんいます。誤解ないように。

平成14年1月23日 記

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弁護士という仕事 (1)
 

弁護士という仕事について、普通の人はどう言うイメージをお持ちなのでしょうか?私の志望の動機もあまり確固としたものでもなく、当初どう言うイメージを持って弁護士という職業を選択していたか、今では、あまり記憶にありません。

私は、父と小学6年生の時死別しており、生前父親が自分で小さな会社を経営しており、身近な職業としてはそれくらいしかありませんでした。自分が自己主張の強い人間であることは自覚しており、いわゆる宮仕えをするのがいやで、自分で仕事をしたい、ということで選択したと思います。

この歳になると果たしてその選択が正しかったのかどうか、わかりません。後悔しても仕方ないので、あまり考えもしませんが、正直一度はやはり会社勤めをし、別な視点角度から社会を見る経験はあったほうがよかったかもしれない、とは思います。もっともどう言う職業についたとしても、みることのできる社会は、それぞれで限界があり、完全ということはないとは思いますが。

弁護士という仕事の特長として、私個人が気に入っていることとして、やはりいろいろな人間と知りあえる、ということでしょうか。普通の、と言うかどうしても自分の人生からこれまで付き合ってきた人間というのは限られていますし、こんな人、見たことないという人と出会えることがあります。それがいいことか悪いことかは、ともかく、私自身はそのこと自体非常に興味深く感じています。また、紛争と言う状態での人間の対応の仕方を見ると、人としての本性というか真実の姿を垣間見ることもあるような気もします。見習いたくなるような人も多いですし、反面教師にしようと思うこともあります。

今後しばらく、私の仕事内容について述べていきたいと思います。

平成14年1月9日 記

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ホームページ開設しました
 

今回自分のホームページを開設することとなりました。平成11年7月、私が独立して個人事務所を開設した際にもホームページ開設を検討したことがありましたが、事務所開設の準備に忙しくその後は仕事に忙しくずっと見送ってきました。

今回開設することにしたのは、ひとつに依頼者向け。仕事柄会社の担当者から依頼がきますが、なかなか打ち解けて話す機会がありません(何人かの方とは飲みに行ったりしたことはありますが)。そうした方々が、時間のあるときにこのホームページをみて、少しは私の人となりをわかってくれるかもしれない。ひとつは、交渉相手が私と会う前に、私のホームページを読んでいてくれれば人違いもなくスムーズに話ができるかもしれない。ひとつは、必然的に私の考え方がホームページに出るでしょうから、たまには誰か知らないひとから意見をいただければ、自分の考えを練り直す機会を得ることができるかも。さらに古い友人等から連絡もくるかもしれない等の理由からです。

積極的に広告のためではありません。メール等で私に法律相談的なことをなさっても、必ずしも回答するお約束はしません。もちろん、何らかの返事をおくることはあるかもしれません。気楽に、有村という弁護士がいて、こう言う考え方をしているのだと言うことを知って頂ければ、私のホームページ開設の目的は達せられたこととなります。

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有村へのご意見は、お気軽に y.arimura@arimura-law.jp までお寄せください。